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更新日:2021年12月9日

立川市の散歩コース【4.砂川新田発祥の地を歩く】

玉川上水駅を出発し、砂川の神社や水路を巡るコースです。

散歩コース概要

砂川新田発祥の地を歩くコース地図

【4.砂川新田発祥の地を歩く】(PNG:5,880KB)

  1. 西武線玉川上水駅
  2. 阿豆佐味天神社
  3. 蚕影神社
  4. 流泉寺
  5. 金比羅山
  6. 砂川分水・柴崎分水取入口
  7. 西武線西武立川駅

阿豆佐味天神社

阿豆佐味天神社

阿豆佐味天神社は砂川の鎮守として、寛永6年(1629)村山郷殿ヶ谷(現在の瑞穂町)の阿豆佐味天神社から分社して祀られ、祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と天児屋根命(あまのこやねのみこと)です。

宝永5年(1708)の棟札を残す本殿は市内最古の木造建築物です。
拝殿は文久2年(1862)完成、総欅造りで都内でもまれに見る豪壮な建物で、その彫刻の見事な彫り、意匠の巧みさが際立っています。

令和元年(2019)に鎮座390年祭が行われ、それを記念して市内最大、直径5尺2寸(1.57m)の大太鼓が制作され披露されました。

氏子は砂川全域に及び、元日の午前0時から大きなかがり火が焚かれ、納められたお飾りやだるまなどが焼かれます。

元日の境内には多摩地区で最も早いだるま市が立ち、出店が並び、初詣客で大変賑わいます。

例祭は9月15日直近の日曜日に行われ、大太鼓や神輿も出て賑わいます。

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蚕影神社

蚕影神社

蚕影神社は養蚕の神様です。

幕末の安政7年(1860)に常陸国筑波郡(現在の茨城県つくば市)から勧請されました。

現在砂川では養蚕業は行われていませんが、幕末の頃に砂川から遠い常陸国から養蚕の守り神を勧請するほど、養蚕が盛んに行われ、村の経済を支えてきました。
かつて蚕影神社は、阿豆佐味天神社の境内に単独の社がありましたが、昭和55年(1980)神社の境内整備のため、今は拝殿の横に金比羅神社、疱瘡神(ほうそうしん)など他の境内社と合祀されています。

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流泉寺

流泉寺の写真

砂川に入植して新田開発を進めてきた農民たちは、厳しい生活の支えとして神社や寺を建立しました。

流泉寺は砂川村一番組から十番組までの菩提寺です。

村の開発が始まってから20年余り経た慶安3年(1650)に殿ヶ谷村の金龍山福正寺の第十四世東林香玉により創建され、4年後の承応3年(1654)に福正寺より禅師を招き開創されました。

山号は天龍山で、宗派は臨済宗建長寺派です。

明治時代にはここが教育の中心となり、約30年の間、境内には学校が設けられていました。

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金比羅山

金比羅山

砂川三番の玉川上水金比羅橋の近くに、高さ10mほどの築山があり、金比羅山と呼ばれています。

玉川上水を掘った土砂が盛られたものではないかという説と、江戸時代に流行した富士塚ではないかという説があります。

この金比羅山がいつごろ築かれたのかは、はっきりしていませんが、安政年間(1854~1860)に、砂川村の名主・村野家が願主となり、「富士浅間神社」、「金比羅大権現」、「秋葉神社」を勧請したと伝えられています。
秋葉神社は静岡県浜松市秋葉山にある火難・水難よけの神として古くから知られています。

江戸時代になってから徳川家康の命でご神体(三尺大権現)が小田原に移され、その土地の富士浅間の神と合祀されました。

富士信仰との融合がはかられたと考えられています。
「富士」「金比羅」「秋葉」の三神はたがいに関係を持ちながら、この山に祀られたといえましょう。

特に金比羅大権現は、玉川上水で舟運が行われたころ、舟神様として祭られ、それからこの山は金比羅山と呼ばれるようになったのでしょう。
いまでも住宅地の間の緑の多い小道を上っていくと、古びた祠を見ることができます。

なお、玉川上水で舟運が行われていたのは、明治3年(1870)~明治5年の2年間のみです。

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砂川分水・柴崎分水取入口

分水取り入れ口

玉川上水の松中橋の上流には、砂川用水と柴崎分水の取り入れ口(分水口)が並んでいます。

しかし、明暦3年(1657)に引かれた砂川分水の分水口は、稲荷橋と天王橋の間にありました。

砂川村は五日市街道と砂川分水に沿って、敷地が短冊形にならぶように計画的に作られました。

分水は、道沿いにまっすぐに流れます。

これに比べ、柴崎分水は元文2年(1737)松中橋付近から引かれ、すでに柴崎村にあった屋敷に給水するため、境界を曲がりながら流れました。
明治3年(1870)玉川上水の通船事業などにともなって、分水口がまとめられます(分水口の統合)。

砂川分水は、武蔵野市や三鷹市までの10の分水とつなげられます。

この時に、砂川用水の分水口は松中橋の今の場所に移され、柴崎分水も砂川用水に組み込まれます。

さらに、明治4年には小金井市の下流から深大寺分水がつくられ、調布市の野川までの長い用水になります。

また、砂川村内では五日市街道の北側や南側に田用水が引かれ、水田もつくられました。

その後、明治43年(1910)柴崎分水が砂川用水から独立し、上流の今の位置に、分水口が新しく作られました。

なお、源五右衛門分水(休止中)の分水口が、見影橋の上流にあります。

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関連ファイル

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部生涯学習推進センター文化財係

電話番号:042-525-0860

ファックス:042-525-1236

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