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更新日:2021年12月9日

立川市の散歩コース【2.矢川から多摩川方面を歩く】

JR西国立駅を出発し、多摩川沿いの水辺空間や、緑道を散策するコースです。

散歩コース概要

2矢川から多摩川を歩く

【2.矢川から多摩川方面を歩く】(PNG:3,416KB)

  1. 西国立駅
  2. 矢川緑地保全地域
  3. 根川貝殻坂橋
  4. 日野の渡し碑
  5. 根川緑道
  6. 沢の稲荷
  7. 学校教育発祥の地の碑
  8. 大和田遺跡
  9. 都立立川高校(旧府立二中)
  10. 立川駅南口

矢川緑地保全地域

矢川緑地

錦町5丁目の市立第七小学校の西方に、かつて「井戸端」と呼ばれた湧き水がたくさん出る場所がありました。

昔はここが矢川の源流で、その豊富な水が流れていた小川が、段丘下の第七小学校の北側の細い道です。
昭和初期の耕地整理で、矢川には現在見られる玉石の護岸がつくられました。
そして、都市化がすすむと井戸端からの水脈は断たれ、水源は羽衣町3丁目の矢川辨べん財ざい天てんの付近に移りました。

矢川に合流する立川段丘崖線の湧き水は、ほかにも数か所あります。

近くに旧石器・縄文時代の痕跡を残す向郷遺跡の人たちも、この豊富な湧き水を利用していたことでしょう。
いまでも、この矢川の水源付近の流れはとてもきれいで、植物相、動物相(特に昆虫)も豊富です。

この矢川流域の自然を活用し、より多くの人々に親しんでもらおうと、東京都が整備したのが矢川緑地保全地域です。
市街化の波間に残された貴重な自然地域となっています。

コース概要

根川貝殻坂橋

根川貝殻坂橋

平成2年(1990)、都の「武蔵野の道」計画にもとづき、立川市が吊り橋をイメージしたコンクリートの橋を架けたものです。
近くにある貝殻坂から、名づけられました。

ここから甲州街道までの根川は、土の護岸で昔の姿をよく残し、桜の名所になっています。

コース概要

日野の渡し碑

日野の渡し碑

日野橋を通る都道256号線は、かつては国道20号線の一部でした。

この道路は、もともとは新宿から甲府をつなぐ旧甲州街道で、五街道の一つです。

柴崎体育館の東側を通り、錦町の下水処理場の南西で多摩川に出ました。

大正時代までここには橋がなく、冬の渇水期は仮の橋を架け、夏の増水期は渡し船を使って通行していました。

この渡し場が「日野の渡し」と呼ばれていたのです。
その後、アメリカの会社で永年働いたことのある増田淳が、自動車が多く通行することを見込んで、鉄の桁橋として日野橋を設計し、大正15年(1926)に完成しました。

「日野の渡し」が廃止され、日野橋が完成してからちょうど60年たった昭和61年(1986)10月、渡し場の近く、下水処理場の敷地角に、立川観光協会を中心とした人々によって、「日野の渡し」記念碑が建てられました。
日野橋は令和元年(2019)の台風により橋脚の一部が被害を受け、一時通行止めとなりました。

老朽化した橋は架け替え工事が行われており、2030年頃に完成予定です。

コース概要

根川緑道

根川緑道

根川は、もともと段丘下の湧き水を集めて流れる川でした。

上流は、拝島からの九ヶ村(くかむら)用水が流れ込み、下流は青柳で府中用水に入り、立川でも農業用水として使われました。
その後、砂川一番付近で玉川上水に合流させていた残堀川が汚れてきたことから、明治41年(1908)頃、新しく堀をほって、富士見町の“滝の下”で根川に合流させました。
大正時代、青年たちが根川の土手に植えた桜がみごとに咲くようになり、人々がボートを浮かべて、のどかな川辺の一日を楽しむようになりました。

しかし、昭和47年(1972)洪水対策として残堀川を柴崎町4丁目で南東に曲げ、多摩川に入れました。

このため、下流の根川は埋め立てられました。

しかし、せせらぎを残したいという人々の願いによって、平成9年(1997)「アクアパークモデル事業」としてかつての根川の上に新しく緑道と自然に近い水路1.4kmをつくりました。

多くの木々が残され、毎分1.7トンの下水処理水を流していますが、魚や虫、鳥も生息するようになり、特に桜の時期には多くの人々が訪れます。

コース概要

沢の稲荷

沢の稲荷

沢稲荷は柴崎町四丁目にある稲荷社で、「沢」というのは、このあたりの古い地名です。

住宅にはさまれた細い路地を入っていくと、小高い塚の上に祭られたお稲荷さんがあります。
このお稲荷さんは、長い間水田の神様として付近の人々の信仰を集めてきました。
いまでも2月の初午の日には近所の人たちが、五色の幟を立て、お供えを上げて沢稲荷を大切にしています。

沢稲荷のある塚はその形から、6~7世紀頃に、この地に勢力を持っていて、大和政権とつながりのある人物の古墳(円墳)ではないかと考えられています。

コース概要

学校教育発祥之地の碑

学校発祥の地

柴崎四西公園の一角に「学校発祥之地」と刻まれた石碑が建っています。

この地は立川で初めて独立校舎が建てられたところです。

江戸時代、柴崎村の子どもたちの教育は、普済寺諏訪神社で行なわれていました。
明治維新後の明治3年(1870)、市立第一小学校の前身である郷学校が、普済寺にある塔たっちゅう頭(子院)心源庵で開かれました。

村の子どもたち40名が、4人の先生から「読み、書き、算盤」を習ったとのことです。

この郷学校は、その後、明治5年の学制発布によって耦穎(ぐえい)学舎、柴崎学校(明治8年)と名を変えて存続しましたが、やがて生徒の数が増えたため、独立校舎を建てることとなりました。
明治11年、村人たちの熱意によって柴崎四西公園の地に2階建ての校舎が完成しました。

生徒の数は120名ほどでしたが、当時では独立校舎はとても珍しいものでした。
『柴崎小学校沿革史』には、「北多摩郡内小学校新築ノ嚆矢(こうし)ナラン」と、校舎建築の初めであることを誇らしげに記されています。

そして、立川村の教育は大正3年(1914)までこの場所で行なわれ、現在の市立第一小学校(柴崎町2丁目)へと移っていきました。

この石碑は昭和25年(1950)に、市立第一小学校の創立80周年を記念して建てられたものです。

令和2年(2020)には市立第一小学校は創立150周年を迎えました。

コース概要

大和田遺跡

大和田遺跡

大和田遺跡は柴崎町四丁目の青柳段丘上に広がる、縄文時代から奈良・平安時代にかけての複合遺跡です。

昭和29年(1954)以来、数回にわたって発掘調査が行なわれ、縄文時代早期(およそ1万1000年~7000年前)・中期(およそ5500年~4500年前)・平安時代の竪穴住居跡や遺物がみつかっています。

竪穴住居とは地面を掘りくぼめて床とした半地下式の建物のことです。
下大和田遺跡は大和田遺跡の一段上の立川段丘上にある遺跡で、主に旧石器時代・奈良・平安時代の遺跡です。

旧石器時代ではおよそ3万年前の礫群(焼いた礫を使った調理場跡)が発見されています。

奈良・平安時代では、8世紀後半~9世紀後半の竪穴住居とともに、掘立柱建物が9棟みつかっています。

掘立柱建物は竪穴住居より「格」の高い建物とされ、下大和田遺跡は奈良・平安時代の一般的な集落でなく、古代の役所の跡ではないかという意見があります。
下大和田遺跡の北西およそ500mには、弘仁2年(811)創建とされる諏訪神社が鎮座しており、関係が注目されます。
大和田遺跡は立川市指定史跡で、昭和29年の発掘調査地点のそばには文化財の掲示板があります。

コース概要

都立立川高校(旧府立二中)

明治34年(1901)、当時の東京府で2番目の中学校(旧制中学校)として創立された、多摩地域の最初の中学校でした。

それから約100年、同校は多摩地域ばかりでなく、日本の発展に貢献した多くの人材を育ててきました。

都立高校は全日制普通科131校(平成20年4月1日現在)、その創立の古さは日比谷高校(旧府立一中)についで2番目。

都内きっての名門校です。立川高校と名を変えましたが、その伝統は今も生きています。

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関連ファイル

お問い合わせ

教育委員会事務局 教育部生涯学習推進センター文化財係

電話番号:042-525-0860

ファックス:042-525-1236

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