新指定された立川市指定有形文化財

ページ番号1020760  更新日 2024年4月22日

立川市教育委員会は、令和6年3月25日付けで、立川市文化財保護審議会から答申された4件の文化財を立川市指定有形文化財に指定しました。

いずれも市内柴崎町、普濟寺に伝わる文化財で、保存のため一般公開は行っておりません。今後、立川市歴史民俗資料館の企画展で特別公開等を予定しています。

これからも指定文化財の保存活用を図るともに、貴重な文化財の調査を行い、保護に努めてまいります。

普濟寺版 大方等大集経

24帖。南北朝時代、応安七年(1374)から至徳三年(1386)。巻1~13、16、21~30。立川市歴史民俗資料館保管。

版木を普濟寺に置いたことで普濟寺版と呼称される刊経(木版印刷された経典)です。鶴岡八幡宮に奉納された五部大乗経のうち、明治時代に散逸した大方等大集経の一部が普濟寺に移り保存されてきました。

武蔵国において最古の地方開版された刊経と考えられ、刻記(行間)には助縁者やその者の在所村名が記され、中世の多摩地域の地名等を伝える大変貴重な文化財です。

写真:普濟寺版 大方等大集経
普濟寺版 大方等大集経巻第一

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普濟寺古過去帳

3冊。江戸時代、享保元年(1716)ほか。『古過去帳玄武山』享保元年補修『古老伝説記并古過去帳』享保二年『(内題古過去帳)』年不詳。立川市歴史民俗資料館保管。

普濟寺は中世武士立川氏の菩提寺として、南北朝時代、文和二年(1353)に鎌倉建長寺より物外可什禅師を招請して開かれた寺院です。戦国時代に後北条氏とともに立川氏は滅び、兵火で館や寺院など村が焼失したと伝えられています。

館はその後寺院となり、江戸時代の中期には復興が進み、当代の住職によって寺院の縁起や沿革、立川郷に関する古史料の書写等、寺院や村内の歴史が記録されます。

中世の史料が殆ど残っていない立川市域において、中世の地域史が記される極めて重要な資料です。

写真:古過去帳玄武山
古過去帳玄武山
写真:古老伝説記并古過去帳
古老伝説記并古過去帳

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普濟寺梵鐘

1口。総高124cm、径70cm。江戸時代、元禄四年(1691)。普濟寺所蔵。

市内に現存する最古の鋳造年銘が刻まれた梵鐘で、旧谷保村(現国立市)の鋳物師関氏によって鋳造された銅鐘です。

鐘銘には、天正期の寺院焼失から江戸時代元禄期までに諸堂を復興するまでの経過とともに、発願した住職並びに賛助者、旧柴崎村の檀徒など、功績者が記されています。

旧柴崎村の東に隣接する旧谷保村には、関氏のほか三家が鋳物業を営み、江戸時代中期以降鋳造品を量産しますが、関氏の遺品の中で最古のものと考えられています。

鳴音に秀で、除夜の撞鐘では遠くに達することで親しまれてきましたが、鐘楼の建替えにより取り外されました。市内最古の梵鐘として貴重であるとともに、銘文の内容は地域史としても価値の高い資料です。

写真:普濟寺梵鐘
普濟寺梵鐘

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普濟寺境内并堂塔図

1幅。巻子装。大きさ(約90cm×約32cm)江戸時代、享保二年(1717)。立川市歴史民俗資料館保管。

江戸時代元禄期までに復興を終えた普濟寺境内の現況を描いた墨書の絵図です。添書から寺社奉行に提出された際の控を所蔵したものと考えられています。

作画した年号から市内に伝存する最古の絵図になり、多摩川段丘の崖線を縦軸に立川氏館に係る土塁列を横方向に配した構図に、本堂等建造物の位置や柱立ての構造、用水の流路等、伽藍が詳細に描かれています。

寺院の境内及び周縁の歴史的景観を伝える貴重な資料です。

写真:普濟寺境内并堂塔図
普濟寺境内并堂塔図

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